武蔵野大学人間科学部人間科学科専攻科
言語聴覚士養成課程 准教授
北 義子 先生
コロナ禍の中で難聴ということを考える④
―今をいきいきと生きているあかちゃんと私たち―
空間と時間を共有して響きあいましょう
もう真夏のように暑い暑いですね。皆様お元気でしょうか。
さて、3回にわたって、あかちゃんは、自ら主体的に学ぶ、ということや、聞こえという感覚が私たちの生活にもたらしてくれている情報量の多さについて、また、私たちのコミュニケーションに知らず知らずのうちに含まれているコンテキストやテクスチャーというものが、いかに私たちがいる、この空間や、一瞬一瞬の時間を、いきいきと輝かせてくれ、コミュニケーションの相手と、「ともにそこにいる」、「ともに時間を過ごしているんだ」、というコミュニケーションの実感やつながりを与えてくれているか、ということについてお話してきました。今回は最終回として、私が気にかけているあかちゃんとのコミュニケーションのコツにいてお話しましょう。
「難聴のせいでことばが聞き取れない、だから言葉が遅れる」。単純にそう思い、難聴児にことばがしっかりと耳に入りさえすればいいのでは…。と、私は一生懸命、はっきり、ゆっくりと、「ことばを聞かせること」に力を入れてきた時代がありました。もちろん、単純に絵カードで教えるようなことはさすがの私もしてはきませんでした。体験を重視して、丁寧に、子どもの関心にそって、お母さん方にお話しはしてきたつもりです。しかし、ようやく最近になって、私は難聴児のことばの習得を妨げてきたものはことばが聞き取りにくいということだけではなかったのだと、心底腑に落ちています。
聞こえのよい子どもたちは、背景(文脈;コンテクスト)となっているこの空間のすみからすみまでを把握でき、そこに流れる時間を最初から最後まで味わえるからこそ、この目の前にいる相手の使うことばを、意識せずともその意味を解釈でき、思わずまねできるくらいの、そんな相手との一体感を得ることがやすやすとできたのです。私たち聞こえる人の「周りの状況」というものは実はなんと広さ・高さのある空間であることでしょう。そして、刻々と形を変えて流れているその状況を私たちはいつもモニターしながら、目の前の作業に集中したり、あるいは他に注意を分散させたりすることができているのです。
中村公枝先生が体験を重視して、丁寧に、ことばを学ばせるように、とおっしゃっていらしたのは、単にカードなど単純な方法を使うな、体験から積み重ねよ、などというような大雑把な意味ではなく、このように状況を包括的に捉えにくい難聴児が、ことばの意味を捉えるためには、私たち大人が工夫して、リアルに状況(空間と時間)を感じさせなくてはならないためであり、それさえできれば、難聴児は相手との関係性の中から、自らことばを主体的に聞き、理解し、使用することができるからだったのです。
全体を包括して捉えることのできにくい難聴児は、いつも目の前の一つ一つの場面、場面を認識することはできても、それぞれの場面をつなげて考えることが難しくなりがちです。あるいは自分が注視したことは認識できても、視界の外の状況や自分の見落としてしまっている、例えば背後の様子、横の人のおしゃべり、遠くのサイレン等々思いもつかない状況が、自分の思いとは全く別個に何重にも重なって存在し、変化し続けていることに気づける難聴児は少ないでしょう。難聴児は、音の溢れている生活の中で、いってみれば、ピースの欠けたパズルを無理やりに解かされているような、そんな気分を味わっているのではないだろうか、と思います。ことばを耳に入れるだけでこの空間やそこに流れる時間を認識するという壮大なパズルは完成するわけではありません。ことばが耳にとらえられたとしても、大きくさまざまに欠けたピースをどのように補うか、そこにこそ、私たち親や療育者は心を砕くべきではないかと思います。聞こえにくさは依然として残っても、ことば以外のピースに意識を向けることによって、私たちも子どもたちも、のびのびと学びを進めることができると思っています。
母語としての学びは「ケアコミュニケーション」から
ことばだけに注目して学ばせようと躍起になると、つい、私たちSTや大人は教えようと「指示」や「コマンド」を与えてしまいがちです。「見て」「きいて」「いってごらん」「なにかな」…等々。しかし、それでは、子どもたちはいつも受け身になってしまい、自ら学ぶことができません。自分から主体的に学び、ことばを使う…それこそが母語であって、学習の負担も少ないはずです。そして、母語としての学習を実現するには、まず、相手に関心をもち、相手が使うことばを聞きたくなる必要があります。それには、相手を好きになることが必要です。どんな相手のことを好きになれるでしょう。もちろん、自分のことを分かってくれて、悲しいときには慰めてくれ、おなかがすいたらミルクをもらえて、相手の言っていることはわかりやすくて、そうすると、いっしょにいて面白くて、楽しいのですね!
聞こえさえすれば、だれでも相手のことが分かりやすいのですが、難聴であれば、こうなれるように工夫が必要です。私たちSTはあかちゃんの注目を浴びやすい存在になるように努力しています。
まず、私たちが刺激をあかちゃんに送るのではなく、あかちゃんが発したサインを受け止めて、「わかったよ!あなたはこんなふうなことを思っているのね!したいのね!悲しいのね!等々」と反応すること(ケアコミュニケーション)です。
ケアコミュニケーションと調整
また、その際の私たち自身の反応の仕方を空間的にも時間的にも調整をしていきます。前回にも書いたように、同じ空間の中に居ながらも、近づき過ぎず、少し離れてあかちゃんの視線の範囲にSTの全身が入るように位置取ります。こうすることで、あかちゃんからSTの全身の動きが見やすくなります。
反応の仕方は大きく、身体や表情をリズミカルに大きく使い、声の抑揚もリズミカルで聞きやすく、難聴児に分かりやすいものにします。しかし、決して、難聴児自身の気づきを妨げないように、STのタイミングで刺激を送ったり、反応することは抑制し、本人からのサインを待ちます。「ほら、ほら、きいてごらん!」「なにかきこえてるよ!」と注意を喚起してやりたくなりますが、そこで大人が「ききましょう」「ききなさい」と指示(コマンド)を出すと曖昧さの中から自分でつかみとる主体的に聞く(わかった!)、いっしょのタイミングでわかる(聞こえたね!嬉しいね!)、という経験はできなくなります。自分から聞く体験をさせたいので、親の聞こえる音では聞こえないなら、音を近づけたり、大きく調整してもう一度聞かせる、あるいはこちらが少し近づく、などして音を聞こえやすく調整してあげましょう。そして、私たちはとっくに聞こえていますが、「あ!聞こえているね!」「ほら、きいてごらん!」と言いたくなる、気もちをぐっと抑えて、あかちゃんが気づくまで待ちましょう。あかちゃんが気づいたら、その時に、まるで、自分もその時に初めて聞こえたように、「あ!きこえた!」と表わしてみましょう。その時きっとあかちゃんとお母さん・お父さんの間にはなんともいえない嬉しさがこみあげてくるでしょう。指示されて聞くことは指示する方もされる方にとってもつまらないことです。お互いに次もやってみようという意欲やさらなる意味付けに繋がりません。
本人が気づいたタイミングで、あたかもSTもその時初めて気づいたかのように、タイミングをずらしてあかちゃんと同時に反応をして見せる、などの工夫はかなり難しいことですが、あかちゃんの表情をよく見て、なにを感じているかを汲みとれれば、できないことではありません。また気持ちが通じあったときのうれしさはたとえようもありません。私たちにとって大事なことは、あかちゃんの気づきを信じて待つ、ということです。私たちはほんの数秒が待てません。しかし20秒でも待つことができれば、きっとあかちゃんの表情に変化が見えてくるはずです。
気温の変化でもあかちゃんが「暑い」と感じるときに、「あっつい、あっついね」と言いながらあやしてくれ、扇風機をかけてくれたり、服を涼しいものに着替えさせてくれれば、そこに安心と共感が生まれますし、愛着が芽生えます。
あかちゃんにとっては毎日、毎日を家族と過ごすことで、母親や父親を知り、生活の場が安心できることがいちばん療育で大切なことです。
ケアコミュニケーションの例
一歳半の中等度の難聴児が指導が終っても帰りたがらず、なんどもおもちゃの扉をあけようと「とんとん」と叩いて(もう1回あけてよ!)とアピールしていたことがありました。この時は中村先生が指導なさっておられたのですが、あかちゃんが小さな手でとびらを叩くたびに「とんとんとん、、、、今日はおしまい、ばいばーいだって」と声をかけ、あかちゃんがママのひざに顔を埋めると「ざんねーん、うーん」と身体と表情で精いっぱいに気持ちを代弁してあげていました。子どもと先生は互いに顔を見ては、20数回以上くりかえし、その子が、はた、と少し大きく顔をあげたとき、中村先生は「そうだ、ぱっちんしよう、ぱっちんして帰ろう!」と明るく声をかけると、とても元気に立ち上がり、さっさと電気を消して帰っていったのでした。
このように、中村先生は気持ちは十二分にわかってあげ、気持ちを自分で立て直すまで、付き合ってあげながらも、決しておもちゃをまた出す、などの妥協はされませんでした。そこもまた、大事なところですね。
状況の理解を基盤にしたことばの主体的な使用の例
中等度の難聴の例をお話しましょう。二歳半で中等度の難聴が見つかったお子さんは、とても賢いお子さんだったので、まるで聞こえには問題がないように見え、一歳半で、ママ、パパ、などいくつかの言葉は話せていましたし、とてもきちんと生活場面での躾をなさっておられたので、衣服の着脱や食事などもきちんとでき、「ちょうだ(い)」「あんがと(ありがとう)」などのことばを話すことができました。ただ、「あんがと」ということはできたのですが、そこに「感謝」の気持ちなどは込められるほど状況が理解できているわけではなく、なにか「物」を渡されると「あんがと」と、決まり事のように言うだけでした。
一方、STが反応の仕方を調整してあかちゃん時期から対人への興味や状況への主体的な関心を引き出していたお子さんは、やはり二歳半で、おばあちゃまと楽しく遊んだ日曜日、いっしょにお昼を食べ、帰ろうとしたおばあちゃまに玄関までついていき、「ばあば、たのしかったね、ありがとう」と初めて「ありがとう」ということばをそのように使ってみせたのです。お母さんもおばあちゃまも、教えてもいないのに、とびっくりされたそうです。私も聞いて驚き、そして、とても感動しました。
この例でもわかるように、ことばが主体的に使われる、というためには、さまざまな状況での使い方を聞き、理解することが必要で、決して、効率的な教え込みによって獲得できるものではないのです。
重度のあかちゃんの例
重度の難聴があるあかちゃんと積み木遊びをしているときに、あかちゃんにちょっと飽きているような様子が見えました。ごいっしょにいらしていたおばあちゃまもそれを感じ取って、子どもが関心をほかのことに向けている間にさっと手早く積み木をしまってくださったのです。しかし、私は、知らぬ間になくなるのではなくて、片付けも見せてあげてほしい、とお願いをしました。魔法のように目の前に出てきて、そして、魔法のようになくなるということはありません。聞こえの良い子どもたちは、何とはなしに片付けの音を聞き、「あーあ、ちらかっっちゃってー、片付けるよ!」などの声やなにがしかを感じているのです。難聴児は全く感じとることはできませんから、出したものを片付けるには、出した量に応じて誰かが手を動かさなければ、片付かない、そのような当たり前のことも、自分で片づけさせるわけではありませんが、見せて感じさせていきたいと思います。そして、できれば、音も精いっぱい聞かせて。時にはお行儀が悪いですが、硬いおままごとや積み木などを滑り台から転がしたり、床や壁に派手に投げたりもします。その音を聞いて、だんだん、おもちゃの転がる先を目で追うことができるようになってもいきました。そして、それを目で追いながら、STと共有することもできるようになっていきました。(もちろん、他の活動で人への関心も育ててはいましたが)
中村先生もお子さんとおもちゃを片付けるときによく、盛大にガラガラーと音をたてて箱の中に入れたりなさっていました。また、おもちゃ箱のなかのミニカーを選ぶときに、「何がいいかなー」といいながらガラガラ、ガラガラ―っと音を立てていらしたことを思い出します。今、先生はおもちゃを片付けている、先生はおもちゃを探している・・・。この大人がおもちゃを片付ける、選ぶ、間の時間も、お子さんたちとしっかりと共有できるように、きっとなさっていたのだろうと、懐かしいお声と、お顔と、手つきを、今思い出します。そのようにすることで、中村先生がたいへんそうに片付けたり、あるいは楽しみながら、迷い、探し、逡巡したり、する時間を子どもたちと共有し、大人の気持ちの変化や行動を子どもに理解しやすくしていらしたのだと思うのです。そして、その結果、先生のことがみな大好きになり、四、五歳では自ら考えて片付けを手伝ったり、家族や友だちのことを思いやるお子さんたちが育っていきました。
難聴児と付き合う―一人の人間として
ことばは多くの認識の上に成り立つもので、だからこそ、本来教えられて使うようになるのではなく、子どもたちが自分の力で、これはこういう意味かな、こういう時に使うといいのかしら??と試行錯誤して使うようになることが望ましいのでしょう。
中村先生はいつも「先生」という高みから教えるのではなく、あくまでも一対一の人として、自分を子どもたちに見せるように努力していらしたのだと思います。私たちも親として、STとしてではなく、一人の人間として、難聴児と付き合っていきたいものです。
もうひとつの例をお話しましょう。やはり二歳半で少し発達のゆっくりしたお子さんで、ことばらしきものは出てきていましたが、すべて「あ!」だけになってしまって、なかなかことばの拍数がいっこうにそれらしくならない、というお子さんでした。イヤイヤ期に入り、お母さんは手こずっていらして、いよいよ、大変になってきていましたが、それでも身体が小柄なお子さんだったので、お母さんとしては、ひょいと抱き上げてその場を去る、などという方策でその場を凌いでいらっしゃいました。指導から帰るときに『帰りたくない!!』と駄々をこねていても、「さあ、帰るよ!!」とさっさと抱き上げて廊下に出てしまわれます。
そのようなお母さんに、「帰りたくない」とか「もっとこうしたい」というような気持ちが見られたときに、その気持ちにとことん、つきあってあげてみては、というアドバイスさせて頂きました。
するとその一週間後、お母さんととっても関係がよくなり、顔をとてもよく見るようになった上に、音声模倣が急に増え、ただの「あ!」だったものが、ばいばいは「あいあー」など母音の部分をまね始めたのです。びっくりして、お母さんにどうしたんですか?とお尋ねしますと、帰りたがらなかったときに、なんと40分も付き合ったそうです。そうしてみるとなんとなく、顔色がかわったのがわかり、納得して引き上げて帰ってこられたそうです。また、次の日からはなんと5分もしないで気持ちを切り替えてくれるようになったのだそうです。そして、もうひとつ、とてもよくお母さんの顔を見るようになり、視線もよく合うようになったのです。そうすると音声の模倣も上手にできるようになってしまった、ということでした。
私たち大人も初めてのなにかを学ぶとき、「安心できる」場所であって、そして、「自分のことを一番に理解してくれているとわかっていて」「自分も相手のことをよく知っていて」「通じやすい」相手とはずっといっしょに居たい、と思いますし、結果として、その相手から多くを学ぶことができますね。
聞こえのよいあかちゃんは実はよく私たち大人や家族のことを見て、聞いて、感じています。私たちはそうとは気づかずに本当に何気なく、言ってみれば無防備に日常を過ごしてしまいます。しかし、そのようにあかちゃんの鋭いアンテナは張り巡らせれている、ということを意識すれば、ずいぶんと聞こえにくいあかちゃんにとって、わかりやすい安心できる環境を作ってあげることができます。
難聴児のいる空間で起きている事柄のはじめから最後まで、をどうか、見せ、聞かせてあげるようにしてください。何事にも理由があって、物事が始まり、理由があって終わるのです。
あかちゃんを指導しているときに、最近はお父さんもよく参加してくださるようになりました。補聴器をつけて一週間め、軽度難聴のあかちゃんとお父さんが滑り台で遊んでいるときに、お姉ちゃんが「パパ!」と呼びました。あかちゃんは「はっ」としてお姉ちゃんを見、そして、「どうしたの?」といいながらお姉ちゃんのところへ行くお父さんを見て、とても納得している様子が見えた瞬間がありました。補聴器をつけていないうちは、お姉ちゃんの声に気づくなどということはなく、お父さんやお母さんと一対一で遊んでもらうことは好きでも、お姉ちゃんとあかちゃんと、大人との遊びには発展しない、とのことでしたが、補聴器をつけてからは、お姉ちゃんの見ているテレビにも興味を示し、家族四人で関わりあい、遊ぶことができるようになった、という報告をまさしくお母さんから受けている時のことでした。このあかちゃんもメキメキと人への関心を育て、ことばの発達も見違えるようにのびのびと育っておられます。
さて、今あなたとあかちゃんのいる空間は、あかちゃんにとって、安心できる、よくわかる空間になっているでしょうか。そして、お母さんは、お父さんは、あかちゃんにとって、自分のことをよく理解してくれている、という相手になっているでしょうか、あかちゃんに私たち自身のことをわかってもらえているでしょうか。
私たちはついつい、大人であり、あかちゃんにとっての保護者であるがゆえに、自分自身のことを知ってもらう必要はない、とでも思ってはいないでしょうか。考えたこともないかもしれませんね。透明な空気のような存在になっている、ように思っているかもしれません。
しかし、実は私たちのことをあかちゃんはとっても知りたいのです。また、よく見たい、聞きたいのです。そして、お互いに、今、あなたはこういう気持ちなんだね、とわかったよ、ということをあかちゃんは分かってくれた、と了解できるような瞬間があるでしょうか。
私は指導において、中村先生をまねて、必ず自分の全身が子どもの目に入るように心がけています。そして、初対面の子どもに急に正面きって目をあわせて声をかけていくようなことはあまりしません。お母さんやお父さんたちと話しながら、自分をあかちゃんにまずよく見せ、こちらの表情や声、しぐさをよく見てもらいます。まずは、あかちゃんに私自身をよく観察する時間をあげるのです。というのも、コミュニケーションとは話す人と聴く人とが相互に響きあって成り立つもので、まだことばもわからないあかちゃんに初対面から不躾に声をかけ、大人が観察しようとするのはなにか違うと思うからです。そもそも対話とは言語以前に相手への尊重が必要であり、そこにおいてはこどもや難聴といった要素はあくまで一部に過ぎません。お互いがお互いを想い、重なり、つながり、響きあうこと。それこそが、もっとも重要なことだと私は感じています。あなたの想いをわかりたい、あなたに想いを伝えたい。響きあい、広がっていきたい。そう願い、難聴という障害の特性にあわせたコミュニケーションの工夫をすることができたならば、子どもたちは自然と相手の気持ちに敏感になり、自分の思いも表現しようとしていくでしょう。子どもに今大人の思いが伝わっているのかどうか、言ってごらん、聞いてごらん、と性急に確かめるのではなく、ちゃんと子どもの表情や思いに心を寄せれば、子どもは私たちを信頼し、コミュニケーションを、そしてことばを学んでいこうとしてくれるのではないでしょうか。